林雄介のブログ!(はてな)

作家の林雄介。元農林水産省のキャリア官僚。政治評論家。

林雄介、夢がない、、、

林雄介、夢がない、、、。これは、質問ね。

ガンジーのように、マザーテレサのように、あるいはネルソン・マンデラのように孔子のように、孟子のように、吉田松陰のように生きたらいいんじゃないですか?

1つは、現実的などろどろの中で、魂というか感性が枯れちゃっている。
感性というのは、芸術の中にあるから、俳句でも短歌でも、絵画でもやったらいいんですよ。作曲とか。

儒教では、詩に始まり、学にたち、礼におわる。かな?順番を忘れましたが。詩と音楽と礼儀。この3つを重視します。詩とは、詩経です。
まず、詩経からスタートするんです。
次が、音楽、境地が演奏する音楽に出る。

要するに芸術をやれといっているわけ。新興宗教、おそらく世界救世教系だと思うんですが、「真善美」という言い方をします。これは、哲学者のカントが言い出したことなんですよ。
真実、善と一緒に美、芸術がいる。古代ギリシアでも、芸術、文学、哲学、政治、数学、すべて同時進行です。

仏教、仏像や曼荼羅、仏像や絵、塔、芸術でしょう?日蓮は、芸術をやりませんが、「文章力が芸術ですよ。」日蓮の原文を読めば、わかりますが、巧みな言い回し、説得力があります。古今東西の例をもとに、名文を書く文章力がある。これは芸術です。

芸術がないと、枯れていくんですよ。歳を取ると枯れるんです。

作曲でも、短歌でも、模倣からはじまります。そうすると美術館にいったり、音楽を聴くでしょう?で、自分で下手ながらも、何かを創作していく。
人間は、「創作し続けている限り、枯れないんです。」

不自由の中の自由。
茶道というのも、狭い部屋でやる。密教では、マクロスペースとミクロスペースの一致をとくわけですけれど、不自由の中の自由ですよね。

夢というのは、何かを得ることではないんですよ。
例えば、私の夢というか、ライフワークに、「自然災害の被害を減らす」というのがあります。地震や台風を減らせるのか?

「治世の極地は、平穏無事な状態の維持にある」
東日本大震災や、社会情勢の悪化で、多少、話を聞いてもらえるようになりましたが、「平穏無事な社会の維持」が一番難しいんですよ。
不作にもなれば、不況にもなれば、悪いことをする人もいれば、自然災害もあるから。
「平穏無事な一生を全うできる」というのは、最高に幸せですが、平穏無事な一生を全うできる人なんか?いますかね。今の70代、80代は戦争を経験している。60代は、高度経済成長やバブル破綻。30,40代は就職氷河期、20代は「ゆとり」。本人の努力で変えれない社会情勢の変化があるんですよ。消せない災害もあるから、「儒教の最高経典は、易経なんです。自然災害や不作、戦争を予知しないと国が滅びるから。予知できても、消せないから、対策をして、被害を最小限度にするんです。」

夢というのは、前向き。不幸にならないというのは、守りですが。幸福=夢ではないんですよ。不幸にしない、不幸を最小限にするというのも、考えようによっては、「最大の夢」ですよ。
私自身は、個人の「夢」はありません。

なるべく人間が、不幸にならない社会を作ることが重要です。
論語」、「大学」、「中庸」、「孟子」を読んだら、ああいう社会を作ろうと思うはずなんですよね。吉田松陰の本を読んだら、ああいう生き方をしようと思わない方がいいですけれど、思うはずなんです。

自助論や向上心では、「しつこく例示が続きます。」

極端な話、「生きていられるなら、夢なんかいらないんじゃないですか?」
生活に困っていないなら、「あえて無理に夢を持つ必要はないと思いますよ。」

私は、「とりあえず、すべての日本人が生活に困らないようにすること」が夢です。日本がそうなったら、「全人類」が生活に困らないようにします。
歴史上、全人類の生活が困らないようにした人間は存在しません。
この話を、農水省の最終面接でしたから、「それは、行政では無理。」といわれたんですよ。

自分が幸せなら、他人の幸せをかなえるようにすべきだし、「他人の幸せをかなえるようにできない」ということは、「自分が幸せではないんです。」

なんで、受験やスキルアップや人間関係の本を書くのか?個々人が幸せになるためでもあるし、個々人が幸せにならないと、他人の幸せなんか考えないからですよ。そして、幸せさがしに「オウム真理教みたいなところに入信されると困るから、「政治と宗教のしくみがよくわかる本」を書いたのです。

夢がないなら、「林雄介教」に入信して、「全人類の救済」を夢にしたらいかがですか?割とマジで。

全人類の救済をしようと思ったら、最低、全宗教の勉強がいる。経済学の勉強がいる。歴史の勉強がいる。文化の勉強がいる。
「夢を探す時間」なんかないはずなんですよ。

林雄介と一緒に読書しませんか?のテキストを本当に全部読んだのか?
ほとんどの読者が、孟子で躓くから、量を減らして3回目なんです。逆に1回目のテキストを読んだんでしょうか?36冊。

そもそも、実践しているのか?という疑問があります。
論語で、顔回という孔子のお弟子さんが出てきますが、「聖人に至る道を楽しんでいる」。衣食住が苦しくても、聖人にいたる道を楽しんでいる。

「聖人にいたる道を実践しているんですか?」
実践しているなら、聖人にいたるのが「夢」じゃないんですか?
書いてることを実践しないなら、本なんか読む必要はないですよ。

儒教のエッセンスなんか、「ウイキペディア」や「よくわかる儒教」みたいな30分で読める本に書いてありますよ。実践してるんですか?

儒教は、儒教で弊害があるから、もちろん、老荘思想や仏教やバランスよく学ばないといけない。
しかし、論語や大学、中庸、孟子を読んで、「実践しているんですか?」

人間というのは、本質的には善ですが、肉体を維持するために「本能と欲望があり、欲望を実践すれば悪になる。」

最初に学問があり、次に学問をすれば、まねるはずなんです。まねたくなるまで、古典を読むべきなんです。古典は、言行録だから、エッセンスではない。あれを読んで、具体的に、行動を起そうと思わせるための本ですよ。

聖書、処刑されるイエスの最後の祈り、「主よ、私を処刑した人の罪をお許しください。自分が何をやっているかわからないんのです。」
自分を冤罪で、処刑した人に、それ祈れます、本心で。

私なら、処刑されるときに、1、助けを祈る。2、死んだら抗議にいくと伝え、明るく死んで生きますが、最後まで生きようとしますよ。
イエスも辛かったでしょうが、処刑せざるをえなかったヤーベも辛かったでしょうし、ヤーベ自身が、おそらくイエスと合体して、同じ苦しみを味わっているでしょうね。病気治しなんかはヤーベと合体してやっていますから、処刑されたときも、合体していたでしょうね。

「神も痛覚はありますよ。人間と合体して、処刑されたら同じ苦しみを受けますよ。人間と合体しなきゃ、痛みは感じませんが、一体となったいる時は喜びも苦しみも感じますよ、人間の神経を通じて。」

純潔のマリアという漫画とアニメがありますが、「神はなぜ、人間を助けないのか?神は見守っているだけなのか?」これは実存主義マルクスなんかも感じた疑問なんですが、「殉教者が処刑されるときに、一緒に処刑されて痛みの共有をしていますよ。ヤーベが来なくてもマリアか天使が来るから。」

神とは、純潔のマリアで言うなら天上の教会とは、「人間とともに喜び、苦しみを共有している」存在ですよ。見守るんじゃなくて、一緒に迫害されたり、一緒に処刑されたり、一緒に喜んだりしてるんです。それが、神と天界の住人なんですよ。人類を育成しているわけです。育成中も、肉体に降りてきて、喜怒哀楽を共有するんです。神の喜びは、「人間が幸せになること」。神は喜びも苦しみも共有できるから、オリンピックで金メダルを取ってね、「ゼウスのおかげ、アテネのおかげ」と喜んでいる人間の感情がそのまま、喜びになり、「負けた」という悲しみがそのまま悲しみになるんです。
「オリンピックは参加することに意義がある」といいますが、「金メダルなら、金メダルの喜びをオリンポスの神々が共有し、負けた選手の悔しさも、あるいは、参加できたことに対する感謝も共有している。そういう祭典だから、絶対に古代ギリシアでは続けたし、戦争も禁止されていたんですよ。
ギリシアが滅んだ、本当の理由は「神と距離ができ、人智で政治をおこなったから、滅びたんです。」